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コロンバス(2017)


【原題】Columbus

【監督】コゴナダ

【出演】ヘイリー・ルー・リチャードソン ジョン・チョー パーカー・ポージーほか

【あらすじ】

高名な建築学者の父が講演ツアー中に倒れたと聞き、インディアナ州コロンバスを訪れた韓国系アメリカ人のジン(ジョン・チョー)は、容態が改善しないためこの地に留まる。彼は、街にあふれるモダニズム建築に詳しい図書館勤務のケイシー(ヘイリー・ルー・リチャードソン)と出会う。ジンは父と確執があるためコロンバスを離れたいと考え、ケイシーは薬物依存症の母の面倒を見ていてコロンバスから離れられなかった。(Yahoo!映画より)



 
【感想】

『雑誌の撮影に来たがカメラマンが来ない』

 





どーもどーも「ガメラ3」で破壊された京都駅を実際に見てワクワクするタイプのラーチャえだまめです。早速ですが本日はコチラの映画を拝見させて頂きました。



【コロンバス】__。去年日本でも公開されフィルマークスでも話題になったとされるこちらの映画、ご存知の方も多いかもしれません。アメリカのインディアナ州コロンバスを舞台に中年男性と若い女性カップルが織りなすラブストーリー?人間ドラマ?…という筋書きなんでありますがヒジョーに“変わった映画”と言ったら良いのか、これまたどー言ったら良いものか、、、この映画の真の“主役は”ズバリ































































「え、アタイですか?」










そう「建物」でございます!!……ん建物??これは一体どーゆーことでしょうかー!?ある1組の男女が紡ぐ物語をその後ろでそっとたたずみながら見つめ続ける「建物」……いやもっと言うなら「モダニズム建築」が本作の「主人公」…!!というですね、これはにっちもさっちも……あいやちょっとやそっとどころの騒ぎではない非常にマニアック……というより目のつけどころがシャープでしょって映画、だったんですねー。



そもそも「モダニズム建築」ってなんだよコノヤローって話ですよね?“近代建築”を指す言葉でオフィスや病院、図書館など施設利用者がいる建造物、と言ったらいいのでしょうか(建築学は全く無知なのでこれぐらいが限界)あくまで利用者のための建築物でありますので機能的そして合理的でなければなりません。ですがその中でも美術的、芸術的センスに秀でた俗に言う「見て楽しむ」をコンセプトとしてデザインされた建築物も存在するわけです。でもって今作はそんな建築物が特に多いとされるインディアナ州コロンバスにある実在するモタニズム建築をじっくりと鑑賞することが出来る!?せいぜいタモリ倶楽部か建築ヲタだけが萌えキュンしちゃうようなマニアックな映画なのか!?とも思っていたのですがそのような心配事は全て無用の産物なんでございます。いやむしろ私のような建築に全く精通していないド素人共目こそ楽しめてしまうかもしれない??明日からアナタの住む街の景色が、“見方”が変わるかもしれない!?そんな映画なんですねぇ。





 

建物から建築家の“想い”を汲む&でも建築知識は無くてもOK?





監督は「晩春」「東京物語」など世界的に有名なニッポンの小津安二郎という映画監督(はじめて知ったわタハッ!)の作品で脚本を手掛けた野田高梧という方を崇拝するあまり自らを“コゴナダ”と名乗ってしまったドキュメンタリー出身の新人監督……お恥ずかしながら今並べたウッスーい知識なぞ持ち合わしておらずとも全く問題ありません。いやむしろ先に述べたモダニズム建築がどーのこーの言われて無駄に座敷が高いと思って躊躇してしまっては大変勿体ないと思うのです。確かに“知識あっての本作”と語る方もいるかもしれませんが、私のようなボングラめが見ても充分楽しめる作品であると保証しましょう!!本作は知識うんぬんではなく「見て楽しむ」映画の部類であるからです。そうそれはまさに“建築を愛でる”が如く…。



OPから監督の几帳面さが全面に出てしまっているのか「こだわりの主張が強すぎるんじゃぁ〜!!」な“完璧なカメラワーク”。建物の向き、奥行き、さらにはその“中”…つまりは“部屋”の中にありますインテリアだったりインテリアだったりインテリアだったり(何回言うんだよ)もうー細部に至るまでリドリースコットかよ!!とツッコミたくなるような“こだわり”を感じずにはいられません。そして建物をバックに佇む人物たちの“立ち位置”すら非常に計算づくされているのがわかる“美しい映像世界”に早くも虜になってしまいました。



大学で建築学を教える教授が突然ぶっ倒れちゃいましたね、危篤状態が続くので韓国に移住する息子のジンがビジネスケース引きながらコロンバスにやってくるのですが…。演じるのは「search/サーチ」でとんでもクライシスな事件に巻き込まれてしまったエゴサーチ芸人ジョン・チョー。ジョン演じるジンは親父が住んでいた家に滞在するのですがその様子を伺う若い娘がいたんですね。「スプリット」でアニャ様同様プロフェッサーな変態に拉致されてしまう一人を演じたヘイリー・ルー・リチャードソン演じるケイシーは現在実家で母親と二人暮らし、地元の図書館に勤めていて「出会ったばかりの人にいきなりモダニズム建築について語り出す」という性癖があったんですね



ジンとケイシー。そんな2人がたまたま出会っちゃった翌日にはケイシーは早速ジンをモタニズム建築の世界に誘います…。まま、彼女の建築の関する知識には脱糞、あいや脱帽なんでありますが私はそれよりも一応建築学者の“せがれ”としてジンが(確か病院だったかな?)の場所で披露した「建物には人を癒すチカラがある。ある建築家は人を癒す使命を得ていると言った_。」という解説に、ほぉー建物にはそんなメッセージ性も含まれているのかーへぇー、とバカみたいな感想で恐縮ですしかし名だたる建築家たちが「どのような想いで建てたのか」なんていう話が聞けたり?また数回同じ建物が登場するのですが、昼間と夜とでまた違ったバエる「顔」に映るんですよねー。確かに建物の雰囲気って時間帯によって全然変わりますよね。あれーもうすっかり気分は建築学者気取りですよハハハハハハ



ほかにも建物じゃありませんが「今日暇?」「今日は母と食事する約束なの」「ならお母さんと3人でどう?」と強引にでも食事の約束をしようと目論むケイシーの職場の同僚ロリー・カルキントン(そーゆー所が彼女に対する配慮が足りてないって言うんじゃねえk、)が語る“本に熱中する教授とゲームに熱中するその息子の話”の件もなかなか面白いんですよね。つまりは集中力ではなく興味の欠如が問題というわけですかフムフム……



とまぁそんな感じで大学の面白い講義でも聞いているような気分にさせてくれる、観光スポットでもない普段何気なく生活していて沢山目にしているはずなのに、なかなか立ち止まってマジマジと見る機会がない建物に対する興味を抱かせてくれる、この映画にはそんなチカラがあるかもしれません。



一方で建築映画のほかにも地味に“タバコ映画”でもあると思うんですよね。ケイシーとジンの2人が何度かタバコを吸うシーンがあるのですが、2人ともそれはそれは美味しそうに吸うんですよねーまあ吸わないから知らんけど





 

“背景”が語る2人のドラマ















対照的な二人







母と“別れたくない娘”と父と“別れたい”息子。これってまさに建築でいう「完璧な非対称」ってヤツじゃねえ!?(誰が上手くないことを言えと)ジンは幼い頃に建築に夢中だった父から愛情を受けずに育った、だから父のことを好きになれなかった。韓国ではハイテンションからご臨終〜したらみんなの前で思いっきり悲しんで涙を流してやらないと魂が成仏されないらしい……だから自分は実家に帰る前に父がせめて病院で息絶えるのをある意味望んであるのかもしれない、とケイシーに打ち明けます。反対に三度の飯より建築好きなケイシーは過去にイェール大学に進学するチャンスがありましたが、親元を離れれば麻薬中毒な母が一人になってしまう、自分は母と一緒に暮らす生活に幸せを感じるべきだ、と自分にそう言い聞かせていた。だから親元から離れない選択をしたとジンに話します。そんな家族について“正反対”の想いを持つ2人が建物を通して出会い、そして気持ちを通わせていく姿。“完璧な非対称”の建造物が美しいのと同様に2人のやりとりもまた美しいんですよね。そこには“男女の恋愛”要素もあれば“硬い友情”のようなものも見て取れます。そしてこの出会いが後にそれぞれの運命をつき動き出す「動力」になる……



ジンはケイシーの才能をこのまま潰すのは非常に勿体ない、たとえ母のためとはいえ進学の夢を捨ててはならないと強く主張し、逆にケイシーはたとえ仲が悪いとは言えそれでも「親子」なのだからずっと父のそばにいるべきだとジンに言う。



私は特にジンの「ロクに相手にされてこなかったのに最期はベッドの前で看取ってほしいなんて、そんなの不公平だろ」のセリフにそうだよなぁーと、“家族”っていう契約みたいなものが時に鬱陶しくなるというか、しかしそんな父を嫌うジンがOPで父と全く同じ場所同じ角度で黄昏るその哀愁漂う後ろ姿を見せられてしまいますと、これは“血”を感じずにはいられないといいますか、少々あからさますぎる演出ではあるんですけどね。あと途中おまっ……‥人妻やぞ!!!



最後の展開がまたいいですよねぇ。見事に“チェンジ”しちゃう所が。ぶっちゃけ「人間ドラマ」をメインにして見るとそこまで感情を揺さぶるような話でもなく「え、こんなもん?」と人によってはそう感じてしまうかもしれません。しかしその人間ドラマを「建物を中心にして」見る(ちょっと難しい表現で自分でも何言ってるかわかりませんが)そうすることで本来作品の中登場人物の「背景」として映るだけの建物が、物語を生み出す「影の立役者」的ポジションにも見えて、よりはっきりとした「主役の顔」として映ってくるのかもしれません。そんな「建物を見る」行為を、映画という媒体を使い行おうという、非常に実験的かつ斬新な映画かもしれません…。





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