災 劇場版(2026)
- 19 時間前
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【原題】災 劇場版
【監督】関友太郎 平瀬謙太朗
【出演】香川照之 中村アン 竹原ピストルほか
【あらすじ】
家族や進路について悩む女子高生、ある過去を抱えた運送業の男、ショッピングモールの清掃員と理容師、負債を抱える旅館の支配人、平凡な主婦。彼ら6人のささやかな日常は、突如として不可解な災いに襲われる。警察はすべて自殺や事故として処理するが、刑事の堂本は妙な気配を感じ取り、事件の真相を追う。6人の災いの周辺には、あるひとりの男が紛れ込んでいた。男は性格も顔つきも変えて全くの別人として6人の前に現れ、彼らに災いをもたらしていくのだった。(映画.COMより)
【感想(ネタバレなし)】

『結論:“因果応報”はエゴ。』
先日とある映画を観に行った時に隣の熟年カップルが上映中もずっとお喋りしていてうるさかったので静かにして下さいと小声で注意したら男の方が逆ギレしてきて立ち上がって怒鳴りながら手を挙げてきたのでとっさに制止させるアクションとろうとして

こうなりました。
ラーチャえだまめです。男はそのままキレながら女と途中退出、上映後に話を聞きに来た劇場スタッフに事情を説明。2人は出口付近で待ち伏せしているということで私はスタッフ3人にガードされる形で退場……スタッフの神対応に感謝感激。このご恩はチケットとフード代金で還元させて下さい。こういう時は絶対にこちら側から手を出してはいけません。映画に登場したサルのほうがまだ賢かっt……そんなわけでとんだ「災」難に遭ってしまいました、そうこの映画を観た後です。
【災 劇場版】__。今年の「未体験」鑑賞時に何度も流されていた予告で嫌でもあの「目の奥が闇すぎる香川照之」が脳裏にこびりつき鑑賞。てっきり映画かと思ったら元はWOWOWの全6話の連続ドラマの“再編集”長編映画化……このもともとTV放送数話を劇場用に“繋げて”1本の映画として売り出すタイプって前からどうも好きになれなくて。昔に長編映画だと思ってレンタルした洋画がドラマの総編集版で裏切られた苦い思い出が蘇る……そんな連続ドラマという“肩書”がむしろ邪魔になるくらい??「映画」として全力で推したくなりました。WOWOW入ってないんでドラマ版は知りません。でもソレはソレ。コレはコレで1本の映画として非常に“完成度”が高い。まるで非の打ち所がない演出。完璧なまでのカメラワーク。完璧なキャスト。そして完璧なテーマ曲。「一度観たら絶対に忘れ“させてくれない”」映画の代名詞のような、そんな映画だったんですねー。
時間も場所も性別も年齢もバラバラの異なる人間の“日常”。そこへ“同じ顔”の“ある男”が接触(侵食)していく___。

キャスティングが本当に神。非の打ち所がない。その中で一人、シソンヌのじろう。コント師で面白いのは知っている。“上手い”のも知っている。負債と結婚した潰れかけの古旅館のオーナー?いやーめっちゃよかった。旅館の一室で奥の部屋を振り向いて覗く場面。カッコよすぎだろ!!一人タバコを吹かす場面。カッコよすぎだろ!?あまりにサマになり過ぎる。コントで明るいキャラクターも演じることが多い彼の“影の役”は是非堪能していだきたいと思いましたね。あとはポカリスエットのCMで注目された新人の中島セナの女子高生も良かったなー。松田龍平の“いつもの感じ”トラックの運ちゃんも、ドラマ「お母さんが一緒」の内田慈演じるショッピングモールの清掃員も、んあぁ?これだからZ世代は……
竹原ピストルも「いるいる!こんな刑事!」にしか見えない。中村アンなんて後半から「羊たちの沈黙」のクラリスよもう……だからみんなはまり役なんだってぇ!?そして彼らの“日常”を脅かす歩く“厄災”

香川照之の瞳の中の「闇」に飲み込まれたが最期
もう凄すぎてこれ以上何も言えなくなってしまった。一人6役を難なくこなすばかりでなく絶妙な“間”の取り方。この一瞬の“間”で空気感が一気に変わる。「キモチワルイ。」人が無意識的に感じ取る危険センサーが反応する。
舞台は東京、横浜、埼玉、茨木、、、、複数の登場人物の数だけ複数の舞台が登場して混乱するのでは?と懸念を抱く方もいるかもしれない。これが全くノーストレスで、まず交代の「順番」が完全に決まっているからもうバカな私でも整理できたし、ぶっちゃけ横浜だろうが埼玉だろうが舞台の特異性もないし、そして各舞台で全く違う“ある男”が登場するので今どこが舞台だっけ?とはならない。群像劇なのに複雑さを排した親切設計だから最後まで余計な混乱を招かず物語に集中することができた。
どうすることも出来ない、回避不能の「災難」。偶然と偶然が重なり合った結果だと思えていたものが、画面から「ある男」という「災難」が現れた瞬間、それは「偶然ではなく必然」だと絶望する。
たとえば日常生活でふいに“何か”に気づく瞬間というか、買い物しておつりが777円だった時とか「お、今日は何か良いことがありそうだ」とか思う時ってありませんか?私もパッと時計を見て「11:11」って時がよくあるんですけど、そういう時「今日は“何か”が起きるサインだな」と感じてしまうのです。それは以前に「11:11」の数字を見た時に、ちょっとした“何かラッキーなこと”(もう忘れましたが)が起きたからで、記憶より体にそう刷り込まれている。それが良いことかもしれないし悪いことかもしれない。このような“何か”のサインと言うのが、本作でいう「“ある男”の登場」に当たるのだと思いました。まぁ思いっきりBADなサインですが。

そんな何か説明が出来ないふいに訪れる“何か”、それが別にその後の人生を悪い方向に変えるくらいの大したことがなければ気にも止めないのですが、大したこと大アリストテレスだと非常に困る。でもいつ起きるのか予測できないし回避も出来ない。だから人は“災難”と言って半ば諦めるしかない。「それは災難だったよね」と言えばどうすることも出来なかったんだ、誰のせいでもないと。それが“救い”になる。また可視化も出来ない。それも救いになる。それが本作では“災難”が“ある男”という「コイツのせいなんじゃないか」と明確に犯人として目に見える存在として現れてしまうわけです。犯人が誰か明確にわかっている、けど“どうすることも出来ない”このむず痒さ、憎たらしさ。事件を追う刑事の心情と同じ感覚。「“ある男”は“自然災害”の括りにいれなければいけないのか?」そんなはずはない!あっていいはずがない……
その“はずがない”というのは、人間のただの“願い”というかエゴなんですよね。良い行いをしたら必ず報われる。逆に悪い行いをしたら必ず罰せられる。人間はそうやって教わって育つ。さらに踏み込んで「理由なき自死はない」人は意味もなく死なない。人の死には必ず理由がある“はず”。“無意味”な死は絶対に“認めない”と。
けど現実はどうでしょう。この世界を長く生きれば生きるほど、必ずしもその“ルール”というものが適用されない、それは誰かが勝手に言ってるだけの妄想でしかない、と嫌でも気付かされてしまいませんか?本作に納得がいかない人は、まさにその“ルール”が本作に存在しないからなんだと思います。とても映画的じゃない。◯◯だから死んだ、というような点と点とが線で繋がらない。登場人物のそれまでの人生がどうであろうと“ある男”が現れた瞬間、その人生が一瞬で崩壊する。“ただそれだけ。”それについての説明もされない。だって“災難”だから___。
しかしそれはどちらかと言うと現実に近い。だからこそ本作は現実的な恐ろしさを持った作品なのではないかと。現実の“それはただの願いでしかない”ということを、嫌でも見せつけられてしまうというか___。
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